【踊れるジャズ】必ず聞いてほしいエレクトロ・スウィング5選!
エレクトロ・スウィングとは
エレクトロ・スウィングとは音楽ジャンルの一種のことで、一言で言うと「踊れるジャズ」です。今までのジャズに現代風なクラブで流れてそうなEDMのような曲を組み合わせることで、超絶オシャレな曲になっています。笑
百聞は一見にしかず!とりあえず聞いてみてください!!
お勧めのエレクトロ・スウィング 選
Caravan Palace - Lone Digger
Caravan Palace - Suzy
Bad Boy Good Man (music by TAPE FIVE)
Swingrowers - Midnight ( Halloween Music Video ) Vintage Cartoon
Parov Stelar - Booty Swing
まとめ
これらの曲が気に入ったら、他にもいろいろ聞いてみてください!
私も掃除中や勉強中とかに聞いて、ノリノリになりながら作業しています!笑
映画【天気の子】東京一極集中を強める作品!?
かなり乗り遅れた感がありますが、3週間前くらいに話題の「天気の子」を観たため感想を書きたいと思います。
感想
いや、結論から言うとめちゃめちゃ面白かったですね。なんかすごい話題になっているから観てみたら、良い意味で期待を裏切られました。あんまり内容のこと書いちゃうとネタバレになっちゃうけど、感動しました。やっぱり新海誠監督は都会の書き方がうまいです。そう、これが題名のことにも繋がってきます。
東京一極集中を強める!?
先ほど言ったとおり、新海誠監督は都会の書き方が本当に上手だと思います。これは「天気の子」だけに限らず「君の名は」など他の作品も同じだと思います。
実際、私もかつて高校2年生の時に地元の田舎で「君の名は」を観たとき三葉と同じように
「来世は東京のイケメン男子にしてくださーい!」
と本気で思いました。これに加えて修学旅行で東京に行ってから、東京への憧れと田舎コンプは間違いなく私の中で強まりました。大学選びの時にも間違いなくこれらのことは影響しました。
話は「天気の子」に戻ります。「天気の子」は帰省しているときに地元で地方国立大学に通っている友達と一緒に観ました。彼の見終わった第一声は
「東京良いなぁ...本当にあんな感じなの?」
です。また、東京住んでみたいなとも言っていました。東京にずっと住んでいる方達からすればこの感覚は分からないと思いますが、地方出身の私たちから観たら、やっぱりこう感じますね。笑
さらにこの2つの作品の主人公も東京に憧れたりして上京しているため、より感情移入がしやすいです。
まとめ
今は念願の夢もかなって都内で一人暮らしして大学に通っていますが、実際に住んでみて想像以上に東京は魅力的な場所でした。
伝統的な日本らしさと近代的な高層ビルの対比は非常に美しいし、都内にも想像していた100倍くらい自然豊かな場所があります。インフレも優れ、イベントも何でもあります。間違いなく東京、世界一の都市だと思います。
もう一生、東京に住んでいたいです。
【ケセラセラ~♪】最近CMでよく聞くアノ曲!!
最近、テレビやYouTubeでもこの「ケ・セラ・セラ~♪」というとてもキャッチーなCMがよく流れているため調べてみました!
このCM!
GalaxyのCMでした!
なんともいえないレトロな曲調と未来風な映像が相まって、とてもいいCMです!!
原曲はこれ!
ヒッチコック監督映画『知りすぎていた男』の主題歌で、主演女優で歌手でもあるドリス・デイが歌いました。
なんと1956年の曲です!
ケセラセラの意味は?
「Que Sera, Sera」はスペイン語の「Que Será, Será(なるようになる)」という言葉が語源とされていますが、実はスペイン語としては非文法的かつ使われた歴史もありません。そのため一種の擬似外国語として、英語圏で使われたフレーズと考えられています。
まとめ
やっぱりレトロな曲調だけあって、かなり古い曲が元ネタでした。
この原曲を少し現代風にアレンジして、うまい具合に映像とマッチさせたGalaxyのCMはとってもセンスが良いなと思いました!
歌詞も良くて、しばらくは頭の中でずっと流れてそうです。笑
【義烈空挺隊】全身に爆弾を巻き付け散った日本軍最精鋭の決死部隊
今回は太平洋戦争中、敵飛行場に輸送機で強行着陸して、敵航空機と飛行場施設を破壊することを目的として作られた「義烈空挺隊」という決死部隊を紹介します。
義烈空挺隊とは
大戦末期、サイパン島がアメリカ軍に占領されたことにより戦略爆撃機B-29による首都圏への空襲の懸念が一気に高まったため、敵の飛行場に特殊部隊を送り込み、地上でB-29を殲滅しようと計画したことから始まりました。
空挺隊員は猛訓練に明け暮れていて、練度は高く正に特殊部隊というにはふさわしかったといいます。実際に鍛え抜かれた空挺隊員の体格を見た人は「こんな逞しい兵隊が日本にいたのか」と驚いています。また、出撃の様子を撮るカメラマンの人も真黒く日焼けし眼光だけが異常に鋭い義烈空挺隊員の風貌に驚き、全員が柔道、剣道有段者の猛者ばかりと聞かされてさらに驚き、今まで日本陸海軍のあらゆる部隊を幾度となく取材してきたカメラマンの人も、こんな荒っぽいが厳しい訓練を初めて目にして、義烈空挺隊の精強さに衝撃を受けています。これは、義烈空挺隊を空輸する諏訪部忠一大尉率いる第三独立飛行隊についても同様だったと記録されている。
この部隊は空挺部隊ではあったが落下傘で降下するのではなく、空挺隊員が搭乗する輸送機がアメリカ軍飛行場に強行着陸し、その後に隊員が機体から飛び出して破壊工作を行う作戦が隊員達に伝えられました。しかし、もちろんこれでは玉砕は避けることができず部隊の士気はなかなか上がりませんでした。そこで搭乗員には「敵B-29を奪取し、これを操縦して帰還すべし」という新しい任務が与えられたことによって、部隊の士気は大いに上がりました。
空挺隊員の装備
空挺隊員は日本軍では数少なかった一〇〇式機関短銃や八九式重擲弾筒を含む各種小火器で重武装したうえに、手榴弾10~15発を詰めた弾帯や雑のう、破甲爆雷、二瓩柄付き爆薬などの破壊機材も装備して、まさしく特殊部隊そのものの重装備だった。
また、出撃前、隊員達は墨汁で黒く迷彩をしていたことが知られている。
出撃まで
空挺部隊はサイパンや硫黄島への敵飛行場への計画が立てられましたが、めぐるましい戦局の中でなかなか作戦は決行されませんでした。いつしか隊員らは出撃もせず毎日美食している自分らを、「義烈空挺隊」の部隊名を捩って「愚劣食放題」と自虐的に自称していました。
日本陸軍最精鋭の義烈空挺隊への期待は大きく、実戦投入するタイミングは難しかったといいます。
突入
しかし遂に、沖縄への強襲が決定しました。健軍飛行場から12機の九七式重爆撃機に飛行隊隊員2~3名、空挺隊員11~12名が搭乗しました。12機のうち6機が沖縄の北飛行場に強行着陸、さらに2機が中飛行場に着陸、残りの4機は発動機の不調などにより目的地に辿り着けず途中で帰還と日本軍では報告されていたが、アメリカ陸軍省の記録では北飛行場にたった1機のみ、胴体着陸・挺身攻撃に成功と記録されています。その他の機体は激しい対空砲火により北飛行場上空で炎上撃墜され、遺体数も確認されています。
胴体着陸を試みた爆撃機のうち、最後に突入した一機が対空砲火をかい潜って北飛行場の滑走路に胴体着陸、10名程の完全武装の空挺隊員が予定通りに航空機に対する破壊活動を行いました。
戦果
F4U戦闘機2機、C-54輸送機4機、PB4Y-2爆撃機1機が破壊され、B-24爆撃機1機、F6F戦闘機3機、F4U戦闘機22機が損傷し、合計26機の被害が後の調査で確認されました。さらにドラム缶600本の集積所2箇所が爆破され炎上、70,000ガロンの航空機用燃料が焼失しています。
義烈空挺隊は12機中、1機突入成功、4機突入断念、7機被撃墜という非常に無念な結果となりました。
まとめ
今回はこの動画からも、いくつか画像を使わせてもらいました。
未来有望な若者が戦争によって、このような作戦に巻き込まれてしまうのは本当に悲しいことです。二度とこの惨劇が繰り返されぬように、政治などに今以上に関心を持たなければいけないなと思いました。
【日本三大怪談】お菊さんの井戸に実際に行ってきた!!【皿屋敷】
今回は少し涼しくなってきた季節ではありますが、「いちまーい、にまーい... 」と井戸で皿を数える場面が有名な怪談話「播州皿屋敷」の題材となったと言われる井戸に実際に行ってきたため紹介していきたいと思います。
播州皿屋敷とは
この「播州皿屋敷」の内容は次のようになっています。
永正元年(1504年)に姫路城主を継いだ小寺則職(のりもと)はまだ若く、城代であった青山鉄山はこの地の乗っ取りを狙い、近くの増井山(随願寺)で主君を討とうと画策します。しかしこの時、鉄山の息子は父鉄山に対して翻意を促したものの、逆に鉄山の怒りを買う結果となり、父親に幽閉されてしまいます。そしてこの時に幽閉された息子が、以前から親身にしていたお菊に報せを頼む事で、父親の襲撃を食い止めて主君を守ったと言います。
しかしその後、城代の青山鉄山は近隣国とも密通し、援軍を受けてから形勢が一気に逆転。姫路城主の小寺氏は追放され、代わりに鉄山が姫路城主へと成り上がりました。そしてその時の祝宴に使用する家宝の皿を部下がわざと1枚隠し、この罪をお菊へと着せてしまう。それによってお菊は責められてしまい、庭の松に吊るし上げられた後、井戸へと投げ込まれて殺されてしまったと言います。
その夜から、「一枚、二枚・・・九つ、嗚呼悲しや」と、皿を数えるお菊の低い声が館に響き渡るようになります。そして逃げ出した青山鉄山はやがて小寺氏と赤松氏に攻められて自害。小寺家はこの時のお菊の忠義に対し、十二所神社に祀る事で霊魂を鎮めたと言われます。(参考:姫路城史、播州皿屋敷実録)
最後の「一枚、二枚・・・九つ、嗚呼悲しや」という部分はとても有名でこれだけは聞いたことがあるという人は多いですよね。
この井戸はどこにある?
驚くことに、お菊さんが投げ入れられた井戸は...世界遺産にも登録されている有名な観光地、姫路城内に存在しているんです。なんとなく人気の少ない心霊スポットになっていそうな場所だと思っていただけあって意外でした。実際に私もこういった井戸があるとは知らずに姫路城に観光しに行きました。笑
井戸はかなり大きい上に、深くてなんとなく不気味でした。さらに小銭がかなり投げ込まれていて、今もお菊さんがいるならばお皿ではなく、小銭を数えるのが大変だろうなと思いました。
もう一つの【皿屋敷】
実はこの有名な怪談話には、播州姫路が舞台の『播州皿屋敷』、江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』があるのです。先ほど紹介して、今回私が行ったのは前者のほうです。江戸が舞台になっているバージョンもあります。
番町皿屋敷とは
この「番町皿屋敷」の内容は次のようになっています。
お菊は、江戸隅田川に近い下町の、貧しい裏長屋で生まれた。父は彼女が赤子の時に死んだため、母はお菊を育てるために針子や料理屋で懸命に働き続けたという。
物心がつきはじめたお菊は、近所の友達が父親に連れられて浅草の観音参りや、深川八幡の縁日へ行くのをうらやましく思うようになった。なぜ自分の父は死んだのだろう、その理由を聞くと母親は決まって辛い顔になり
「おっとうは運が悪くて、流行り病で死んでしまったのよ。だからもう、おっとうのことを話すのはおよし」
と涙を流すので、そのうち彼女は父について聞くのをやめてしまった。
そんな母は、お菊が16になったころ、風邪をこじらせて手当の甲斐なく死んでしまう。天涯孤独の身の上となり、嘆き悲しむお菊。しかし彼女は貧しいながらも色白で美しく、いくつかの大店からすぐに奉公の話が舞い込んできた。相談する相手もおらず、迷う彼女の前にひとりの桂庵(口入れ屋)が現れ、彼女に別の働き口の話を持ち込んだ。
「このたびのご不幸、心中お察しいたします。ところでお前様もこれからどこかへ働きに行かれるのでしょう? ならば他でもありません。わたしのところに偉い旗本様より、女中を雇いたいという話がちょうど来ております。旗本様ならば立場は安泰、仕事も楽だし、支払いもいい。お金を貯めて、おっかさんの墓を建ててあげるのが、なによりの親孝行になるでしょう」
親孝行、という言葉にお菊の心は決まり、桂庵に連れられてその旗本屋敷のある番町へと向かった。
桂庵に女中の口入れを頼んだのは、青山播磨守主膳。禄高二千石、もと火付盗賊改めという、旗本の中でも高い身分の人物だった。泥棒の多かった江戸時代、火付盗賊改は町奉行に次ぐ大役であるいっぽう、下手人捕縛後の取り調べが厳しく、中には無実の罪で殺される例もあり、恐れる江戸庶民は多かった。
そういった事情に加え、貧乏暮らしだったお菊は青山家の大きな屋敷に当初は戸惑っていた。たしかに主膳は気難しかったが、奥方は優しく、年若く素直なお菊をとても可愛がった。面白くないのは古参の女中たちで、特に骨の折れる仕事をお菊に押し付けた。青山家で奉公をはじめて一年、17歳になったお菊はさらに美しくなり、懸命に働く彼女をいつしか気に入った主膳も何かにつけ「お菊」「お菊」と申しつけるほどになった。これによって古参女中たちのイジメも悪化し、あることないことを告げ口して奥方を味方に引き入れてしまう。お菊はそういった過酷な仕打ちにも「母の墓を建てるため」と、静かに耐え続けた。
明けて正月、主膳は火付盗賊改時代の部下をまねき、新年会を開いた。その酒席で使われた10枚の皿は、かつて主膳の先祖が徳川家康から拝領した青磁の逸品である。来客らは皿の素晴らしさを口々に褒めたたえ、主膳はいつになく満足げであった。
――が、宴席のあとで皿を洗っていたお菊は、皿が一枚足りなくなっていることに気づいた。何度数えても一枚足りない。血の気を失うお菊の姿に、ほくそ笑んだのは青山の妻と古参の女中たちである。犯人は彼女たちで、お菊を陥れるために皿を一枚砕いて庭の古井戸に捨てておいたのだ。
彼女らの策略など露知らぬお菊が、おそるおそる主膳の前に土下座して、皿が足りないことを報告すると、先ほどまで満悦していた主膳の顔が、みるみる怒りに染まって紅潮した。ことは神君・家康公から賜った伝家の至宝である。それを無くしたのが、いつも可愛がっているお菊というのがなお腹にすえかねた。可愛さ余って憎さ百倍である。
「おのれ、金目の品と知って盗んだな!」
主膳はお菊の必死の弁明など聞く耳もたず、その体を縄でぐるぐる巻きにすると、弓で何度も殴りつけた。どんなに殴られようと、お菊は身に覚えのないことを認められない。首や手足から血が飛び散っても白状しないお菊の強情ぶりに、主膳の怒りはおさまりを知らず、あげく彼女の手足を縛り上げ、右手の中指を切り落とし、狭い女中部屋に放り込んでしまう。
「あれほど責めたというのに白状せぬとは、ただの17歳の町娘とは思えぬ」不審を覚えた主膳は、昔の部下を使ってお菊の身の上を調べさせた。そして数日後、明らかになったのは、かつて自分が強盗の罪で打ち首にした「向坂甚内」という男には娘がおり、それがお菊だったということである。
向坂は断罪後に無実と分かったが、それでは具合が悪いので主膳は内々で隠ぺい処理していた。もちろんお菊は自分の父のことなど知らないが、主膳はお菊が我が家に入ったのは親の仇を討つためだと勘ぐった。もし皿を紛失した話が外にもれれば、自分は上様からきついとがめをうけるだろう。それがお菊の狙いなのだ、と。
「よし、こうなればお菊を手打ちにしてしまおう」
主膳の言葉を聞いた古参の女中のひとりが、嬉しそうにお菊のもとへやってきて「明日は主膳さまがお前を手打ちになさるそうだよ」と告げた。 お菊は「こんなひどい主人の手にかかって死ぬぐらいならば、いっそ……」と覚悟を決めて縄を食いちぎり、夜遅くに庭の古井戸へ身を投げた。名もない貧乏娘であるお菊の死は、とりたてて世情をにぎわすこともなく、青山家ですらすぐに忘れてしまった。が、それから五か月後、奥方が出産した男児には、生まれつき右手の中指がなかった。「もしやこれはお菊の霊の仕業では……」と青山家の人々は青ざめた。
するとその夜から、屋根のあたりがミシミシと揺れ動き、
「それそれ、その子の右手の中指が無いのをよく見やれ。人の恨みを知るがよい」
という声が聞こえてくるようになった。やがて、あまりの恐ろしさに奥方は気がふれ、髪を振り乱してわけのわからないことをわめきはじめた。しかもその顔つきは、哀れなお菊の死に顔とよく似ていたのである。
奥方が発狂した次の晩、子の刻(深夜0時)になると庭の古井戸から、青白い人魂とともにお菊の亡霊が現れて
「一枚……二枚……三枚……四枚……五枚……六枚……七枚……八枚……九枚……ひいいいいいいっ!」
と悲鳴をあげた。そしてまた初めから一枚、二枚と数えていく……。
「おのれお菊め」気の強い主膳は幽霊を恐れず、大刀を抜いて斬りかかる。絹を引き裂くような悲鳴とともに幽霊は消えたが、代わりに主膳の足元には袈裟切りにされた妻の死体が転がっていた。この一件で、お菊の怨念の恐ろしさが身に染みた主膳は、小石川伝通院の高僧・了誉上人を招き、古井戸の前で供養してもらったが、怨霊の仕業と思われる怪事がおさまることはなかった。
やがてこの噂は江戸じゅうにひろまり、ついに徳川将軍家の耳に入ると、青山家は取り潰しとなり、主膳は親族の家中へお預けの身となったという。
長いですね。共通点としては、お菊さんが濡れ衣を着せられてしまうことと、最後は井戸から皿を数える声が聞こえてくるというところで大筋は似ています。
まとめ
小さい頃、祖母から「一枚……二枚……三枚……四枚……五枚……六枚……七枚……八枚……九枚……ひいいいいいいっ!一枚足りなあぁぁぁいっ!!」という話を聞いた記憶が今でも強く残っています。笑
今になってよく話を調べてみると、お菊さんあまりにも不憫だと思いました...
これは幽霊になって仕方がないなと。
【人間動物園】サルと展示された男の悲しき人生
人間動物園とは19世紀から20世紀にかけて行われた、小人症、アルビノ、脊柱側弯症といった身体障害者や未開とされた人間の文化・生態展示をすることです。今回はその中でも「オタ・ベンガ」という黒人男性を簡単に紹介します。
「オタ・ベンガ」とは
オタ・ベンガは、1883年にコンゴで生まれたピクミー族の黒人男性です。ベンガは結婚していて2人の子供もいました。しかし当時コンゴはベルギーに支配されていて、ベンガが住んでいる場所にも軍隊が送り込まれてしまい妻と子供が殺されてしまいます。このときベンガは狩りに出掛けていて命は助かりました。
奴隷になる
命は助かったものの奴隷にされてしまい、アメリカ人宣教師S・P・ヴェルナーに買われてしまいました。その後、ヴェルナーはベンガと数人の部族をアメリカに連れて行き、1904年のセントルイス万国博覧会に参加させます。
博覧会で人気爆発
ベンガはこの博覧会で低身長と鋭い歯で人々の注目を集めました。この鋭い歯はアフリカの習慣によるものです。これによりベンガはとても人気になり、新聞記事によって全国に名を知られるようになります。
”展示物”になる
そらから博物館などでの生活を経て、ついにベンガは動物園の展示に加えられてしまいます。これにより動物園の訪問者は増えます。しかし、やはり想像の通り、動物と同等の扱いをされて人々から絶えず好奇の目で見続けられることはかなりの苦痛です。ベンガは飼育係をナイフで脅して逃げ出しました。
コンゴへ帰りたい...
逃げ出した後はニューヨークの牧師たちの手配によりある一家の家に滞在し、一家の兄弟と自然を楽しみました。しかし、ベンガにとってそこは遠い異国の地です。ベンガはお金を貯めて故郷に帰ろうとしましたが、第一次世界大戦が勃発してしまい、帰郷できなくなってしまいました。
1916年3月20日、ベンガは自殺してしまいました。このときまだ32歳という若さでした。この波乱の人生によって精神を病んでいたと言われています。
まとめ
【人間動物園】、このようなものがかつて存在していたこと自体が驚きです。妻子供殺された上で、異国の地で奴隷にされてしまったベンガさんの辛さは想像にも及びません。いつか一切の差別が無くなる日が来てほしいと改めて思いました。
海の特攻兵器・人間魚雷【回天】~大津島~特攻の島に実際に行ってきた。
”天を回らし、戦局を逆転させる”という願いが込められて、大戦末期に人間魚雷「回天」は生まれました。今回は回天の基地が現在でも唯一そのまま残っている山口県の大津島に行ってきました。
人間魚雷「回天」とは
簡単に言えば、魚雷に大量の爆薬を搭載し、隊員自らが操縦して敵艦に体当たりするという特攻兵器です。
回天誕生
1943年の夏、日本の敗退が続く中、黒木大尉と仁科中尉の二人の青年士官が戦局を逆転するには体当たりによる特攻作戦しかないと、人間魚雷を構想します。その後、戦局はさらに悪化し、海軍省はついに試作兵器を完成させ、1944年8月、正式兵器として採用されます。祖国を守りたいとの一心から特攻兵器「回天」は誕生しました。
回天の操縦方法
回天はハッチを閉めると、操縦席は電球一つの暗い空間の上、身動きの取れない密室で、回天を操るのは困難を極めました。
手順としては、突入直前に潜望鏡を使用して敵艦の位置・速力・進行方向を確認して、これを元に射角などを計算して敵艦と回天の針路の未来位置が一点に確実に重なる、すなわち命中するように射角を設定します。同時に発射から命中までに要する時間を予測、そして潜望鏡を下ろし、ストップウォッチで時間を計測しながら推測航法で突入します。命中時間を幾分経過しても命中しなかった場合は、再度潜望鏡を上げて索敵と計算を行い、突入を最初からもう一度やり直すという戦法がとられ、訓練もそのように行われました。
~大津島~特攻の島
大津島は全国に4カ所あった回天基地のうち最初に開設され、かつ当時の施設が残ってるただ一つの島です。山口県の瀬戸内にあります。この島には全国から20歳前後の精鋭達が集まり、毎日厳しい訓練を繰り返していました。窮地に立つ祖国を守るため、多くの若者が命を犠牲にすることを前提とした「十死零生」の作戦と知っておきながら出撃していきました。
搭乗員の葛藤
学徒出陣の中から回天の搭乗員になった若者も多くいました。塚本さんは慶応大学在学中に回天の搭乗員となりました。この塚本さんは出撃前に肉声として遺言を残されていて、大津島の回天記念館で実際に音声として聞くことができました。以下がその内容です。
父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう。こんなわがままなものを、よくもまあ本当にありがとう。 僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。愉快に勉強し、みんなにうんとご恩返しをしなければならないんだ。 春は春風が都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ。 夏は氏神様のお祭りだ。神楽ばやしがあふれている。昔はなつかしいよ。 秋になれば、お月見だといってあの崖下に「すすき」を取りにいったね。あそこで、転んだのは誰だったかしら。 雪が降りだすとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。 昔はなつかしいなあ。こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって――。 然し僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。日本人、日本人、自分の中には三千年の間受け継がれてきた先祖の息吹が脈打ってるんだ。鎧兜に身をかため、君の馬前に討死した武士の野辺路の草を彩ったのと同じ、同じ匂いの血潮が流れているんだ。 そして今、怨敵撃つべしとの至尊の詔が下された。十二月八日のあの瞬間から、我々は、我々青年は、余生の全てを祖国に捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ。人生二十年。余生に費やされるべき精力のすべてをこの決戦の一瞬に捧げよう。怨敵撃襄せよ。おやじの、おじいさんの、ひいおじいさんの血が叫ぶ。血が叫ぶ。全てを乗り越えてただ勝利へ、征くぞ、やるぞ。 年長けし人々よ、我等なき後の守りに、大東亜の建設に、白髪を染め、齢を天に返して健闘せられよ。又幼き者よ、我等の屍をふみ越え銃刃を閃めかして進め。日章旗を翻して前進せよ。 至尊の御命令である。日本人の気概だ。永遠に栄あれ祖国日本。我等今ぞいかん、南の海に北の島に全てをなげうって戦わん。大東亜の天地が呼んでいる。十億の民が希望の瞳で招いている。 みんなさようなら!元気で征きます。
次は18歳の回天特攻隊員の遺書です。
お母さん、私は後3時間で祖国のために散っていきます。
胸は日本晴れ。
本当ですよお母さん。少しも怖くない。
しかしね、時間があったので考えてみましたら、少し寂しくなってきました。
それは、今日私が戦死した通知が届く。
お父さんは男だからわかっていただけると思います。
が、お母さん。お母さんは女だから、優しいから、涙が出るのでありませんか。
弟や妹たちも兄ちゃんが死んだといって寂しく思うでしょうね。
お母さん。
こんなことを考えてみましたら、私も人の子。やはり寂しい。
しかしお母さん。
考えて見てください。今日私が特攻隊で行かなければどうなると思いますか。
戦争はこの日本本土まで迫って、
この世の中で一番好きだった母さんが死なれるから私が行くのですよ。
母さん。
今日私が特攻隊で行かなければ、年をとられたお父さんまで、銃をとるようになりますよ。
だからね。お母さん。
今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。
でもやっぱりだめだろうな。お母さんは優しい人だったから。
お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。
私が一番怖いのは、母さんの涙です。
これ以外にも回天記念館には多くの遺書が残されていました。みんな今の大学生と変わらない年齢にもかかわらず、字も内容も本当に素晴らしかったです。
これを見るとより理解が深まると思います!
実際に大津島に行ってみて。
徳山湾からフェリーで20分くらいで大津島に着きました。大津島に近づくとこういう看板が見えてきます。
この日は快晴で、島には人慣れした野良猫が島民より多いんじゃないかと思うくらいいました。
島は時間がゆっくり流れているような平和なところで、たった74年前に回天の基地があったとは思えないくらいでした。回天記念館までは港から徒歩10分くらいでした。当時使われていた施設もそのまま残っているところが多くて、これは回天訓練場まで回天を運ぶために使われたトンネルです。
このトンネルを抜けると、回天訓練基地の構造物がそのまま残っている場所に出ます。
また、この日はとても天気が良かったため自転車をレンタルして島をサイクリングしました。釣りをしている方も多かったです。
まとめ
まだ若いのにも関わらず、祖国と愛する者を守るために出撃していった隊員達の「平和」への思いを我々は引き繋がなければならないと強く感じました。こういった歴史は日本人として必ず知っておかなければならないと改めて思いました。