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海の特攻兵器・人間魚雷【回天】~大津島~特攻の島に実際に行ってきた。

天を回らし、戦局を逆転させる”という願いが込められて、大戦末期に人間魚雷「回天」は生まれました。今回は回天の基地が現在でも唯一そのまま残っている山口県の大津島に行ってきました。

 

人間魚雷「回天」とは

簡単に言えば、魚雷に大量の爆薬を搭載し、隊員自らが操縦して敵艦に体当たりするという特攻兵器です。

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初めてこの兵器を目の当たりにした若き隊員達は何を思ったのだろう...

 回天誕生

1943年の夏、日本の敗退が続く中、黒木大尉と仁科中尉の二人の青年士官が戦局を逆転するには体当たりによる特攻作戦しかないと、人間魚雷を構想します。その後、戦局はさらに悪化し、海軍省はついに試作兵器を完成させ、1944年8月、正式兵器として採用されます。祖国を守りたいとの一心から特攻兵器「回天」は誕生しました。

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回天振武隊


回天の操縦方法

回天はハッチを閉めると、操縦席は電球一つの暗い空間の上、身動きの取れない密室で、回天を操るのは困難を極めました

手順としては、突入直前に潜望鏡を使用して敵艦の位置・速力・進行方向を確認して、これを元に射角などを計算して敵艦と回天の針路の未来位置が一点に確実に重なる、すなわち命中するように射角を設定します。同時に発射から命中までに要する時間を予測、そして潜望鏡を下ろし、ストップウォッチで時間を計測しながら推測航法で突入します。命中時間を幾分経過しても命中しなかった場合は、再度潜望鏡を上げて索敵と計算を行い、突入を最初からもう一度やり直すという戦法がとられ、訓練もそのように行われました。

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~大津島~特攻の島

大津島は全国に4カ所あった回天基地のうち最初に開設され、かつ当時の施設が残ってるただ一つの島です。山口県の瀬戸内にあります。この島には全国から20歳前後の精鋭達が集まり、毎日厳しい訓練を繰り返していました。窮地に立つ祖国を守るため、多くの若者が命を犠牲にすることを前提とした十死零生」の作戦と知っておきながら出撃していきました。

 

搭乗員の葛藤

学徒出陣の中から回天の搭乗員になった若者も多くいました。塚本さんは慶応大学在学中に回天の搭乗員となりました。この塚本さんは出撃前に肉声として遺言を残されていて、大津島の回天記念館で実際に音声として聞くことができました。以下がその内容です。

父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう。こんなわがままなものを、よくもまあ本当にありがとう。 僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。愉快に勉強し、みんなにうんとご恩返しをしなければならないんだ。 春は春風が都の空におどり、みんなと川辺に遊んだっけ。 夏は氏神様のお祭りだ。神楽ばやしがあふれている。昔はなつかしいよ。 秋になれば、お月見だといってあの崖下に「すすき」を取りにいったね。あそこで、転んだのは誰だったかしら。 雪が降りだすとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。 昔はなつかしいなあ。こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって――。 然し僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。日本人、日本人、自分の中には三千年の間受け継がれてきた先祖の息吹が脈打ってるんだ。鎧兜に身をかため、君の馬前に討死した武士の野辺路の草を彩ったのと同じ、同じ匂いの血潮が流れているんだ。 そして今、怨敵撃つべしとの至尊の詔が下された。十二月八日のあの瞬間から、我々は、我々青年は、余生の全てを祖国に捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ。人生二十年。余生に費やされるべき精力のすべてをこの決戦の一瞬に捧げよう。怨敵撃襄せよ。おやじの、おじいさんの、ひいおじいさんの血が叫ぶ。血が叫ぶ。全てを乗り越えてただ勝利へ、征くぞ、やるぞ。 年長けし人々よ、我等なき後の守りに、大東亜の建設に、白髪を染め、齢を天に返して健闘せられよ。又幼き者よ、我等の屍をふみ越え銃刃を閃めかして進め。日章旗を翻して前進せよ。 至尊の御命令である。日本人の気概だ。永遠に栄あれ祖国日本。我等今ぞいかん、南の海に北の島に全てをなげうって戦わん。大東亜の天地が呼んでいる。十億の民が希望の瞳で招いている。 みんなさようなら!元気で征きます。

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出撃直前、一時帰省時のときの塚本家

次は18歳の回天特攻隊員の遺書です。

お母さん、私は後3時間で祖国のために散っていきます。
胸は日本晴れ。
本当ですよお母さん。少しも怖くない。
しかしね、時間があったので考えてみましたら、少し寂しくなってきました。
それは、今日私が戦死した通知が届く。
お父さんは男だからわかっていただけると思います。
が、お母さん。お母さんは女だから、優しいから、涙が出るのでありませんか。
弟や妹たちも兄ちゃんが死んだといって寂しく思うでしょうね。
お母さん。
こんなことを考えてみましたら、私も人の子。やはり寂しい。
しかしお母さん。
考えて見てください。今日私が特攻隊で行かなければどうなると思いますか。
戦争はこの日本本土まで迫って、
この世の中で一番好きだった母さんが死なれるから私が行くのですよ。
母さん。
今日私が特攻隊で行かなければ、年をとられたお父さんまで、銃をとるようになりますよ。
だからね。お母さん。
今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。
でもやっぱりだめだろうな。お母さんは優しい人だったから。
お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。
私が一番怖いのは、母さんの涙です。

これ以外にも回天記念館には多くの遺書が残されていました。みんな今の大学生と変わらない年齢にもかかわらず、字も内容も本当に素晴らしかったです。

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戦友に永久の別れを告げる搭乗員

これを見るとより理解が深まると思います!

www.youtube.com


実際に大津島に行ってみて。

徳山湾からフェリーで20分くらいで大津島に着きました。大津島に近づくとこういう看板が見えてきます。

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この日は快晴で、島には人慣れした野良猫が島民より多いんじゃないかと思うくらいいました。

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 島は時間がゆっくり流れているような平和なところで、たった74年前に回天の基地があったとは思えないくらいでした。回天記念館までは港から徒歩10分くらいでした。当時使われていた施設もそのまま残っているところが多くて、これは回天訓練場まで回天を運ぶために使われたトンネルです。

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このトンネルを抜けると、回天訓練基地の構造物がそのまま残っている場所に出ます。

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左上の構造物が回天訓練基地

 また、この日はとても天気が良かったため自転車をレンタルして島をサイクリングしました。釣りをしている方も多かったです。

まとめ

まだ若いのにも関わらず、祖国と愛する者を守るために出撃していった隊員達の「平和」への思いを我々は引き繋がなければならないと強く感じました。こういった歴史は日本人として必ず知っておかなければならないと改めて思いました。